医療の先達「斎藤 茂吉」「北里柴三郎」
「斎藤 茂吉」
1882~1953年。山形県南村山郡金瓶村(現上山市)生まれ。東京帝国大学医科大学を卒業して精神科医となり、帝国脳病院の院長を務めた。歌人としても才能を発揮し、大正から昭和にかけて歌壇の中心人物となった。
アララギ派の歌人として、数々の名歌を残した斎藤茂吉。幼いころから聡明だった彼は、精神医学を専攻し、オーストリアやドイツでの留学を通じて日本の精神医学界にも大きく貢献した。彼の生涯では人の心のあり方を、医学と文学の両面から捉えて表現した。
「日本の心を歌い上げた歌人」
1896年、茂吉14歳の夏、同郷出身の浅草の開業医をたよって上京。1910年に東京帝国大学医科大学を卒業すると、同大学助手として精神医学を専攻。ウィーンやミュンヘンなどで研究を重ね、1924年には医学博士の学位を受けた。
一方、若い頃より幸田露伴などの文学に親しんでいた茂吉は、1906年に伊藤左千夫に入門。歌誌「アララギ」の中心的な歌人となり、1913年には処女歌集『赤光(しゃっこう)』で注目を浴びた。故郷と親を愛する日本人の普遍的な感情を端的に表現し、「死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」など名歌を残した。
養父が創設した青山脳病院の全焼や妻のスキャンダルなど、心痛事の多い人生だったが、医学界、短歌界ともに後世に大きな影響を与えた。
写真提供:財団法人 齋藤茂吉記念館
「北里柴三郎」
1953~1931年。熊本県小国町の庄屋の家に生まれ、藩校時習館、熊本医学校を経て、東京医学校(現・東大医学部)で学ぶ。ドイツ留学中にあげた業績で世界的な名声を得て、帰国後は多くの医学団体の創設に尽力する。
世界で初めて破傷風菌の純粋培養法の確立と血清療法の基礎を築き、ペスト菌を発見した。「予防医学の父」北里柴三郎は、教育から社会活動まで幅広く、日本医学界の発展に大きな足跡を残している。
「予防医学の先駆者」
1886年からドイツに留学した北里は、結核菌の発見者であるローベルト・コッホに師事し、本格的に細菌学の研究に励んだ。
1889年に世界で初めて破傷風菌だけを取りだす純粋培養に成功し、その毒素に対する免疫抗体を発見する。菌体あるいは毒素を少量ずつ動物に注射し、血液中に得られた抗体をヒトに使用する画期的な血清療法確立し、世界の医学界を驚嘆させた。その功績は第1回ノーベル医学・生理学賞候補となる。帰国後、福沢諭吉らの助力で、日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設。結核予防と治療に尽力し、1894年には派遣された香港でペスト菌を発見した。
1914年には北里研究所を創立し、初代所長に就任。その後、慶應義塾大学医学科、日本医師会創設など、日本医学界の教育から社会活動までに身を投じた。
写真提供:学校法人北里研究所