日々進化する医療技術や広範な健康保険制度などにより、私たちは日々当たり前のように質の高い医療体験を享受している。一方で、高齢化社会到来による医療費の増加や医療アクセスの格差拡大など、持続可能な医療システム構築のためにはさまざまな問題も山積みになっている。
日本の医療が変革の過渡期にある現在、未来の医療体験をアップデートするためには、どのような考え方やアプローチが必要なのか。
グローバルに展開する日本発のヘルスケア企業であるPHCホールディングス株式会社常務執行役員、最高戦略責任者(CSO)の山口快樹氏と、従来の医療の枠を超えた「ストリート・メディカル」を提唱し、iPS細胞研究でも実績を上げる注目の若手研究者である武部貴則氏が、日本の医療が目指すべき未来を語り合った。
日本の医療が直面する「3つの課題」
─ いま日本の医療・ヘルスケア業界が抱える課題をどのように捉えていますか。
山口人手不足やデジタル化の遅れなどさまざまな観点がありますが、大きく「3つの壁」に直面していると考えています。
一つ目は、「医療の質」です。昨今、医療技術の進化は加速しているものの、それでも治療方法が見つからない難病や根治が難しい疾患が数多くあります。
再生医療や遺伝子治療などの先端治療の開発を加速し、治療が難しい疾病に対して新しいソリューションの提供が求められています。
二つ目の課題は、「医療アクセスの格差」です。日本は世界トップレベルの医療アクセスを誇る国ではありますが、都市部で当たり前に受けられる水準の治療が受けられない地域は多い。
デジタルを活用した遠隔診断や治療を普及させることに加え、コスト面でアクセスが閉ざされないよう、適切に検査・診断を受けられる環境づくりや迅速な医薬品開発が求められます。
そして三つ目が、「医療費の増加」です。2021年の国民医療費は45兆円(厚生労働省調べ)を超えており、健康保険の運営や現役世代の社会保険料負担も厳しさを増しています。今後も高齢化が加速するなか、医療費はさらに増加する見通しです。
1978年生まれ。東京大学法学部卒業。大手銀行、投資銀行を経て、2011年にThe Wharton School, University of Pennsylvania でMBA課程を修了。大手総合商社に入社後、2017年からPHCホールディングスに出向。経営企画部長としてPHCグループ全体の戦略策定、M&A・PMI、上場プロジェクトを主導。2021年にPHCホールディングスに転籍・入社し、常務執行役員 最高戦略責任者(CSO)を務める。 ※2024年7月1日より常務執行役員 最高財務責任者(CFO)に就任予定
武部これらの問題は世界共通の課題とも言えます。
特に医療アクセスの問題は深刻で、いまだに世界ではマラリアに感染する人は年間2億人を超えると推定されており、亡くなる人も数十万人いる(出典: 厚生労働省調べ)。
医療アクセスの問題が解決されるだけで、世界中の人々が医療の恩恵を享受できるようになります。日本でいえば、地域格差はもちろん、かつて問題視された「妊婦たらい回し」など、都市部であっても救急を中心に適切な医療にアクセスできないという問題もあります。
山口その課題の要因の一つには、深刻な医師不足もありますよね。
一般的には小児科医や産科医の不足が知られていますが、実は病理医の不足も大きな課題として捉えています。
現在の病理医の数は国内でわずか2000人ほどで、全医師に占める割合でいえば1%未満しかいないと言われています。たった1人ですべての病理診断を担うというケースも珍しくなく、医療の質を担保することは容易ではありません。
武部病理医とは、患者さんから採取した組織や細胞の標本を顕微鏡で観察・分析し、疾患の確定診断を行う医師のこと。普段患者と直接対面する機会はあまりないのでなじみが少ないでしょうが、とても重要な役割を担っています。
たとえばがん患者の場合、手術の執刀医だけでなく病理医が正確な疾患の診断を行うことで、適切な治療方針で手術ができる。場合によっては、他の医師が診断した結果の誤診を指摘することもあるため、「Doctor of Doctors(医師のための医師)」と呼ばれることもあります。
先ほど山口さんがおっしゃった「医療の質」「医療アクセスの格差」「医療費の増加」に加えて、こうした病理医不足など日本の医療には解決すべき課題がまだ数多くあるのが現状です。
医療は「量」から「質」の時代へ
─ 今後、医療・ヘルスケア業界にはどのような改革が求められるのでしょうか。
武部超高齢化の渦中にある日本は、抜本的な医療改革を求められる過渡期にあります。医療改革の実現には、おもに二つの重要な観点があると考えています。
一つが、今年施行された「医師の働き方改革」です。長時間労働が慢性化していた医師の労働環境の改善は、確実に進める必要があります。
そしてもう一つ重要なのが、「医療の仕組み」を時流に合わせて変化させることです。たとえば医療現場の働き方改革だけでは短期的には医師偏在に拍車をかけますし、「医療の質」「医療アクセスの格差」「医療費の増加」の3つの課題を解決するには十分ではないかもしれません。未来の医療を再定義すると共に、より先進的な考え方やソリューションが必要になります。
山口武部先生がおっしゃる通り、抜本的な医療改革は急務です。
従来のような全体最適型の治療ではなく、患者さん一人ひとりに個別最適化した医療を提供すること。また同時にコストの最適化を実現することも求められるなか、「バリューベース・ヘルスケア」と呼ばれるアプローチが医療改革のカギになると考えています。
たとえばがん治療であれば、抗がん剤などの治療がよく効く人とそうでない人がいますが、何によってこうした違いがもたらされるのかが少しずつ分かってきています。
そこから、個々の患者さんに最適な治療法を提供できるようになり、結果として医療の質も改善してきました。がん治療は全体最適から個別化への移行が最も早く進む領域の一つと考えられ、PHCグループでも研究・検査機器や次世代ゲノム解析、DX支援などを通じて力を入れている領域の一つです。
武部そもそもヘルスケア業界は、個別化(患者ごとの治療法)と層別化(疾患ごと、あるいは近年では特定の遺伝子型ごとなどのクラスターに合わせた治療)のバランスがとても難しい。なにしろ一つの薬で何千億円も売り上げるような成功モデルを経験してきたので、その逆を行くオーダーメイド型の医療を目指すこと自体のハードルが高いのです。
さらにいま、医療は治療だけをターゲットにする従来型のモデルから、患者さん一人ひとりの状態を見ながらより健康で豊かな人生を獲得するための医療モデルへの転換を求められる時代を迎えました。
病気の状態や健康診断の結果を点で判断するだけでは足りない。病の有無に関係なく連続して寄り添い、「変化を線で捉える仕組み」が必要です。
山口とても共感します。医療を点から線で捉えるためにも、さまざまな現場のデータを分析・共有することも大切になる。それには幅広い領域をケアすることが求められます。
その点、弊社は研究から診断、治療、予防まで手掛けており、医療機関や研究機関、検査施設、製薬企業、患者さんなどあらゆる医療のステークホルダーとのつながりがあります。
また2023年には創薬の探索フェーズを含む基礎研究から臨床試験まで、幅広い研究開発支援サービスを展開するメディフォード社を設立しました。より個別化した質の高い医療への貢献を加速したいと考えています。
「病」から「人」に拡張する医療
─ 武部先生は、医療と生活の垣根をなくして日々の生活を充実させようとする「ストリート・メディカル」という考え方も提唱されています。
武部「 ストリート・メディカル」 ※1とは、医療の対象を「病」から「人」へと拡張するアプローチです。
従来の医療は、「症状が出てから病院に行く」という流れが一般的でしたが、医療の領域を「病院」から「生活の場」へとより広げていきたい。
※1 横浜市立大学の登録商標。この商標は、医学(Medical)の学術体系に限らず、「実生活の環境(Street)」での知識・技術・アイデア・ノウハウを、積極的に医療の再定義に活用しようというスタンスを表現した言葉。
そもそも、なんらかの症状が出て医療機関にかかっても、必ず明快な診断と治療方針が出てくるとも限りません。
発症にいたるまでのプロセスが非常に長く、治療のフェーズに入ってからは対症療法を中心とした補助的な治療しかできない病気が増えており、発症の前に何ができるかがむしろ重要になってきています。
また糖尿病の患者さんや人工透析を必要とする方など、生活の質が脅かされる病気も多くあります。
いまは医療と人は病気でつながっていますが、未来の医療は病気があるかどうかに関係なく、より生活の中に溶け込む必要があると考えています。
山口特に国民病ともいわれる糖尿病は日常生活への影響が大きいですよね。
糖尿病の患者さんは食事の管理が求められることに加え、血糖管理やモニタリングが必要なため、患者さんの生活の質を落としてしまうことがあります。
当社グループでも、測定データが5分おきにユーザーのスマートフォンアプリに自動送信され、センサーの着脱が年2回で済む血糖測定システムを提供していますが※2、医療が一般市民の日常生活にどれだけ密接に溶け込めるかが重要だと考えています。
※2 180日間装着型のEversense® E3。同製品は現在、日本では販売されていません。
武部おっしゃる通りで、医療と生活の垣根をなくすためにも「クリエイティブ」と「インクルーシブ」のアプローチから多分野のコラボで十人十色の医療を社会に実装する必要があります。
たとえばフランス料理のような大きな皿を使ったり、盛り付けの色彩を工夫したりすることで食事の満足度が上がると言われています。これらはすべて医療以外の領域でのクリエイティブな発想から生まれており、食事管理が必要な方々のQOLの向上につながります。
この他にも、ファッションやエンターテインメント、モビリティなどあらゆる暮らしの要素に医療が溶け込める余白があります。
山口まさに医療が生活に溶け込む事例ですね。ほかにも武部先生は、再生医療の研究でiPS細胞からミニチュア臓器を作り出す「オルガノイド」 ※3の領域で大きな成果をあげていらっしゃいますよね。
※3 試験管の中で幹細胞から作るミニチュアの臓器のこと。幹細胞のもつ自己複製能と分化能を利用して自己組織化させることで3次元的な組織様構造として形成される
武部オルガノイド研究は肝臓からスタートしましたが、いまはほぼさまざまな臓器を作ることが可能です。
人間が自分の進路を自分で決めるように、細胞も自らの運命を決めてさまざまな臓器に育っていこうとするので、その育て方を研究しています。そのなかで、PHCグループのライブセル代謝分析装置「LiCellMo」なども活用させてもらっています。
山口ありがとうございます。細胞そのものを使った治療の研究が進むなかで、それを実用化するには安定した細胞培養の実現が不可欠です。
当社グループが提供する「LiCellMo」は、独自の高精度なバイオセンシング技術を活用し、培地をサンプリングしなくても細胞の連続的な代謝変化をリアルタイムに可視化できる研究用の分析装置です。
詳細はこちら
今後は研究フェーズだけでなく、プロセス開発と製造へとシームレスに移行できる細胞の自動培養装置の開発を視野に入れており、新しい治療を実現する基盤技術になると自負しています。
武部私たちはiPS細胞を日々、手塩にかけて育てているのですが、適切な栄養状態が保てないと、全部だめになってしまうことがたびたびあります。
LiCellMoを使うことで、トラブルなくモニタリングできるようになり研究の効率が飛躍的に向上しました。いまもインスリン(膵臓から分泌されるホルモンの一種)を振りかけたときに人工肝臓がどう応答するのか、そこにどんな個体差があるのかを調べるのに活用していて、細胞の変化を可視化することができています。
医療の川上から川下までカバーするPHCグループ
─ おふたりはそれぞれのお立場から、日本の医療を変えていくためにどんな挑戦をしていきたいとお考えですか。
武部医療において、患者さんのコミュニケーションのあり方を変えていくことです。
診察室で交わされる医師と患者さんの対話以外にも人と医療のタッチポイントは無限にあり、病の有無にかかわらず人の生活や人生とかかわっていくことが医療に携わる私たちの使命となるべきです。したがって、接点は無限に増えていく。
病気の予防や治療のプロセスは面倒さやつらさを感じることが多くありますが、こうした課題もクリエイティブな手法で解決していくことで医療は日常化され、健康で豊かな日々をもたらしてくれるでしょう。
すべての人が、自身が幸せな人生を送るための最適な医療=My Medicineを持ち、活用できる社会の実現を目指します。
山口武部先生のビジョンは、当社グループが追求している「バリューベース・ヘルスケア」と重なる部分が多いと感じます。
社会の医療課題を解決し、当社の強みであるデータ活用やセンサー技術を活用しながら、より質の高い医療の提供に貢献することがPHCグループの使命です。
基礎研究を発展させるソリューションの開発・提供に加えて、医療の効率化と個別化を進め、バリューベース・ヘルスケアの実現加速に貢献していきたいと考えています。
武部新しい技術が生まれても、それを世の中に伝えられなければ社会を変えることはできません。
そういう意味でも、基礎研究の支援から診断・治療、そして予防や患者のQOL向上まで、医療の川上から川下までをカバーするPHCグループのような企業が新しい医療の形に共感し、イノベーションを生み出しているのはとても頼もしく感じます。これからも共に、次世代に新しい医療の未来を届けられることを期待しています。
- 制作
- NewsPicks Brand Design
- 執筆
- 森田悦子
- 撮影
- 竹井俊晴
- デザイン
- 小鈴キリカ
- 取材・編集
- 君和田郁弥